2018年11月21日水曜日

第102回編集会議(2018年11月21日)

開催日時:2018年11月21日(水)13:50~15:10
開催場所:岩本町事務所

(1)宮村師メッセージ

神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。(新改訳2017、ヘブル1:1-2)

1節の「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られました」は、どのようにして聖書が書かれたかを書いている。一度ですべてが書かれたというわけではない。神学校に入ってすぐ、機械霊感説は間違いだと言われた。聖書はいきなり天から降ってきたものではないと。しかし私は最初、そのように信じていた。これは弱みではるが強みだとも思っている。

そうした中で転機となったのが、この1節の御言葉。日本新約教団に関わったときも、また教会の現場でも、神学校教育においても、「一度にすべてではない」「一つ一つやっていくことに意味がある」としてきた。これは神様の業の特徴。

これまで、2代目、3代目というように何かの働きを継承する経験はほとんどなく、新しく始めるという機会が多かった。そうした中で「一歩踏み出す」ときの大きな支えとなったのが、この「一度にすべてではない」だった。

シュラッターというドイツの神学者がいる。ボンヘッファーの前の世代の人で、ボンヘッファーたちがヒットラーの問題について闘っていく1930年代にはすでに老年に達していた。著書『われらイエスを知るや』(佐伯晴朗訳、新教出版社)は、シュラッターが最後に書いたもの。日毎にイエスについて書いた非常に洞察の深い書だが、その中に「一度にすべてではない」と結び付くような「初めは小さく、構想は雄大に」という言葉がある。初めは小さく、一歩だが、全体の構想は持っているということ。

編集会議を100回続けてきたことは本当に感謝。だが、100回終わった後に何をするかが、私にとっては課題。どんなに長くても10年先までという命であれば、200回ではなく、101回、102回が大切。主は何を私に集中的にさせようとされているのか。

田頭真一先生から頂いた原稿のように、まとまったものを出したいと考えている。1冊の本になる可能性があるものを、今のキリスト教の出版社では出せないようなものを、クリスチャントゥデイで出せたというように。そしてクリスチャントゥデイで掲載したものが、印刷された紙の本となっていくことを願っている。

(2)前回議事録確認
(3)アクセス報告
(4)取材スケジュール確認
(5)クリスマス関係の寄稿・記事
(6)新年の企画