2019年12月25日水曜日

救いの証し、召命、献身 井手北斗


「以前、クリスチャントゥデイの記者をしていた。編集長だった宮村武夫先生の孫弟子でもある。宮村先生の後を継いで編集長になってくれませんか」

オファーをもらってからしばらく考え、祈った末、「あれは、このために神様が働かれた形跡だったのではないか」と思い当たる出来事が幾つか心の中に浮かんできました。その幾つかの出来事を通して、神様がこの道に自分を召し出しておられるのではないかと思うようになり、12月から編集長として働かせていただくことになりました。

新しくクリスチャントゥデイの編集長になったこの無名の若者を見て、「この人誰?何者?」と思う人もいるでしょうから、この機会に僕の証しを分かち合いたいと思います。自分の人生は、だいたい3分の1は過ぎたころだと思います。生まれる前から今まで、神様が自分に何をなしてくださったのか、振り返る機会にしたいと思います。長文ではありますが、興味のある人は一読いただければ感謝です。

「さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう」(詩篇66篇16節)

先の者

まず僕の救いの証しをします。自分は後から来た者に過ぎないのに、なぜか先に救いにあずかることになったと感じざるを得ません。僕にとっての「先の者」は母でした。母は大学時代、下宿先からバプテスト派の宣教師が開いていた英語教室に通い、聖書をテキストにして英語を学んでいました。母はイエス様の愛の教えに感動し、イエス様のように隣人を愛して生きる生き方を選びたいと願ったと言います。しかし、復活を信じることができず、クリスチャンにはなりませんでした。

その後、教師となった母は駆け出しの時、大学時代とは別のバプテスト教会の教会員である先輩教師の方にたくさん世話になったと聞きます。その教会には幼稚園もあり、母が勤める小学校に入学してきた卒園生を、母が受け持つこともあったそうです。教師時代の母は、他の先生方がさじを投げた子どもたちを一手に引き受け、崩壊したクラスを次々に立て直していきました。ヤクザも多くいた地域で、警察沙汰になる子どもたちも多くいました。いろいろな問題を抱える家庭を訪問しに行く母の姿を見ながら、幼いながらに「どこからそんなパワーが湧いてくるのだろう?」と不思議に思っていました。今考えると、イエス様が教えた隣人愛は、母の人生において、愛することが困難なときに愛を実践する動機や原動力となったのではないかと思います。

私利私欲のない愛による教育を通して、母は人の人生を変える神様の業に用いられていたのでした。教育とは無関係なエンジニアだった父まで感化され、教育による世直しを唱えて教師に転職するほどでした。母の苦労を間近で見ていたため、マタイの福音書20章にある、朝早くからぶどう園で働いた農夫の姿、「先の者」を重ね見てしまいます。そのような背景もあって、母はキリスト教に対して、僕が生まれた後も肯定的な印象を継続して持っていました。両親は僕が生まれたとき、昔の旅人が星を頼りに方角を知ったように、人の役に立つ者になってほしいと願って北斗と名付けました。事あるごとに、世の中の役に立つ、人の役に立つ人になるように教えられてきました。また、両親は実際に世の中の役に立つ仕事をして、自身の背中でそれを見せてきました。それが人として当たり前の生き方だと思って育ちました。

アフリカの飢餓

幼年期の僕の心に残っていることに、嫌いな食べ物でも残さずに食べることを教えるために、両親がアフリカの子どもたちの話をしていたことがあります。アフリカでは食べ物を食べたくても手に入らず、飢えて死ぬ子どもたちもいる。その子たちに比べれば、お腹いっぱい食べることのできる境遇にいる自分が好き嫌いを言うのは贅沢(ぜいたく)なことであり、感謝して全部食べるのが当然。そういうお話です。しかし、ひっかかるものがありました。「人が食べなかった食べ物をその子たちに送れば、その飢えという問題を解決できるではないか? なぜそれをしないで、いらないと思っている人に食べさせようとするのか?」 僕はそう考えたのでした。この世界には問題があり、それがなぜか解決されないままでいることを意識させられたときでした。

科学と技術の功罪

小学校の頃、生物の最小単位が細胞であると学び、すごいと思いました。つまり自分も多数の細胞から成り立っているのだと、新しい自己認識に新鮮さを覚えました。もう少し学ぶと、今度は分子や原子が出てきます。なるほど、自分は原子から成り立っているのか。原子が集まってできた自分という新しい自己理解です。そのように自分が何者かという問い、自分はどこから来てどこへ行くのかという問いに、一つずつ詳しい答えを与えてくれるのが、僕にとっての科学でした。科学的に裏打ちされた真理こそ、自分にとっての真理でした。

祖父は自動車の整備士で、幼いころからエンジンの教科書を僕に見せながら、ピストン、シリンダー、燃焼室の仕組みやレシプロエンジンとロータリーエンジンの違いなどを教えてくれました。父は炭鉱の掘削機械の設計士で地元の博物館に行くと、父が設計した巨大なトンネルを掘りつつ壁を作るシールドマシンが展示してありました。子ども心に技術を通して世の中の役に立つのはかっこいいと憧れていました。

しかし、科学や技術が常に善に用いられたわけではないことも学びました。『はだしのゲン』です。当時最先端の物理学と技術がもたらしたのが原爆投下という惨劇であり、それに続く核戦争と隣り合わせの偽りの平和でした。読むたびに恐ろしく、悲しく、この世界には問題があり、それがなぜか解決されないままでいることを再び意識させられたのでした。

科学の壁

高校に入ると、生物、化学、物理はもっと詳しく自分を成り立たせている事柄を学ばせてくれました。学校の勉強はある程度にして、休み時間には図書館で日経サイエンスを読み、最新の科学的発見に目を輝かせていました。また、物理学について他よりもっと関心が深まり、素粒子物理学、量子物理学、相対論、宇宙論、超ひも理論などの入門書を読みました。原子よりもっと基本的な自分の構成要素を知ろうとし、またそれを生み出した契機、ビッグバンについて知ろうとしました。しかし結局のところ、自分は何者で、どこから来てどこへ行くのか、この問いへの答えは見つかりませんでした。最先端の物理学の概要を知ることで、科学が答えられることの限界という壁に突き当たったのでした。

ディラックの熱弁

ただ、その中で2冊の本に出会います。1冊がヴェルナー・ハイゼンベルクの『部分と全体』です。特に印象に残ったのは、1927年の第5回ソルベー会議で、僕が尊敬してやまなかったアインシュタイン、プランク、パウリ、ハイゼンベルク、ディラックなどの現代物理学の巨頭たちが、なぜか僕が今まで見向きもせず関心もなかった宗教と神について議論し、その会話をハイゼンベルクが記録していたことでした。いろいろな意見が出ましたが、自分にしっくりきたのはポール・ディラックの意見でした。彼は熱弁し、神が人間の想像上の産物であり、宗教は支配階級が非支配階級をだますために用いたまやかしの夢であり、不必要であり悪であるというものでした。ただ、その熱弁が、当時カトリックだったヴォルフガング・パウリによる「我々の友人ディラックは一つの宗教を持っている。その導く原理は『神はいない。そしてポール・ディラックがその預言者だ』」の一言で皆の笑いものになってしまいます。

なぜ、真剣に誠実に自分の意見を語ったディラックが、皆から笑われなければならないのか、その時は理解できず、置いてきぼりを食らったような感じを受けました。それと同時に、決して交差することのないはずだった科学と宗教が、なぜか科学の最高峰の会議で交差していたことに驚きました。

進路

もう1冊がロビン・ハーマンの『核融合の政治史』でした。この本は、自分の進路選択に決定的な影響を及ぼすことになりました。原子力科学はそれがいくら平和利用を叫ぼうとも、核廃棄物や事故の危険性を考えれば受け入れがたいものでした。それは僕にとって、『はだしのゲン』の恐ろしい記憶がこびりついた学問でした。

核分裂は、ウランやプルトニウムなどの重い元素が分裂するときに膨大なエネルギーが放出されるものです。これとは反対に、三重水素や重水素などの軽い元素が融合するときに膨大なエネルギーを放出する反応が、核融合と呼ばれています。太陽をはじめとする恒星の中では、星が誕生したその時から核融合反応が起きています。そして太陽系においては、太陽から安全な距離にある地球に、その光と熱が毎日届けられ、人をはじめとする生命を育んでいます。星の中では、正の電荷を持った原子核同士の反発力を星の巨大な重力が抑えて原子核を近付け、融合させます。その重力を超電導磁石の強力な磁場で再現し、真空の容器の中で核融合を起こさせ、放出された熱エネルギーを取り出してタービンを回すというのが核融合発電です。

解決策の発見

核分裂は簡単に起こりすぎて止めるのが非常に大変ですが、核融合はその逆で起こすのも継続させるのも非常に難しく、ちょっとのことで反応が止まってしまいます。核分裂の廃棄物は毒性が高く、量も多く、種類も多様で、半減期も非常に長いものですが、核融合の廃棄物は毒性が低く、量は少なく、半減期も短いと書かれていました(現在では異論があります)。また、燃料は海水中に含まれるリチウムから取り出せるので、安価で無限に近くあります。このような科学があると知り、僕はこれだと思いました。自分の好きな物理学を応用することで、無限のエネルギーを作り出す技術の完成に貢献できるのです。

『核融合の政治史』には、国際熱核融合実験炉計画というものが紹介されており、日本・EU・ロシア・米国・韓国・中国・インドが参加しています。過去の世界大戦で互いに戦い、現在も核兵器で互いに威嚇(いかく)し合う国家が互いに予算を持ち寄り、国籍の異なる科学者や技術者らが協力して世界のエネルギー問題を終わらせようと努力している。国際的な仕事場で働いてみたい。こんな素晴らしい仕事は他にはない。そう思いました。この世界には問題があり、それがなぜか解決されないままでいることに終止符を打つ解決策の一つになると。九州大学工学部は、父の出身大学・学部であり、原子炉物理及び核融合理工学研究室があります。夢を持った僕は、九州大学工学部に出願しました。

挫折

九州大学の入試当日、数学の試験で頭が真っ白になりました。合否発表がなくても、はっきりと落ちたことが分かりました。一方、キリスト教に対し良い思いを抱いていた母は、僕に黙って国際基督教大学(ICU)にも出願していたのでした。ICUには工学部もなく、行く気はありませんでしたが、やむなく試験を受けると、受かってしまいました。浪人するわけにもいかず、ずっと理系でやってきたのになぜか文系の大学に行くことになりました。入学式の時に撮った写真には、夢破れ、人生の目標を喪失してがっかりした表情の自分が写っています。将来自分の人生がどうなるのか、見当がつかないでいました。

キリスト教との出会い

ICUにはキリスト教概論という授業があり、必須科目でした。当時のキリスト教概論は並木浩一先生が担当されていました。キリスト教に対しては、高校の頃から持っていた偏見の眼差しがありました。キリスト教概論の授業を通してその偏見に割れ目が生じました。キリスト教とは自分が思っていたような単純なものではない、何かもっと深いものがある。そう感じました。キリスト教について関心を持ち始めるようになりました。授業で学んだことはほとんど忘れていましたが、十数年ぶりに、授業で配布されたプリント類を探してみると、自分が書いた文字や図でびっしり埋まったキリスト教概論のプリント類が出てきました。キリスト教について何かを学び取ろうとしていた当時の自分に不意に向き合うことになり、「17年後の自分よ、まだこの情熱を持っているのか?」と問われたようにも感じました。「情熱くらいしか取り柄がないよ」と答えるしかありません。

東京ソフィア教会

大学生活も1年が終わり、2年生の新学期が始まる前の2004年、春休みに地元に帰省しました。その帰省の途上、韓国の大韓イエス教長老会合同福音教団(以下、合同福音)から派遣された宣教師と、その宣教師たちが開拓していた教会に通う日本人信徒が路傍伝道している場面に出会いました。「聖書を学んでみたいですか?」と聞かれ、大学で学んでいるので興味があると答えると、近くにあったその開拓教会に行き、入門者の学びを受けました。その時は、聖書の最初の書である創世記の1章の1節から、神様による天地の創造について聞きました。ただ、この頃の自分はまだ科学的真理が何よりも確実で有効な真理だと確信していたところもあり、またディラックの主張の通りを信じる無神論者でしたので、ことごとく反発し、反論し、詰問するような態度でした。学びが終わって夕方になりました。敵対的な態度をとっていた初対面の僕を、教会の人たちは「一緒にご飯を食べていきませんか」と誘ってくれ、温かい交わりに加えてもらいました。

その後、実家に帰ろうとしたとき、次はいつ来られるのかと聞かれたので、実家から東京に戻るときに、途中でまた寄ることにしました。その教会に再び行ったとき、東京に行く僕に、池袋で開拓をしている別の教会を紹介し、連絡先を書いた紙を手渡してくれました。東京に戻った後、紹介されて行った池袋の教会でも同じように聖書の話を一度聞きました。その教会は、早稲田にあった東京ソフィア教会の枝教会であったため、そちらに通うことを勧められました。当時、合同福音の宣教師らは土地も建物もない中で、ビルの一室やアパートの一室を借りて、それを教会として、伝道していました。そのような教会が、日本に数カ所あったのを記憶しています。東京ソフィア教会はそのような開拓教会のうちの一つでした。そして、その東京ソフィア教会に初めて行き、ドアを開けて目に入ってきたのが、現社長の矢田喬大が掃除をしている姿でした。矢田は当時、千葉に在住していましたが、日曜日の礼拝は東京ソフィア教会に来ていました。同い年で、教会に来始めた時期も似ていたため僕たちは友だちになり、親しくなりました。

救い

僕は、東京ソフィア教会で本格的な聖書の学びをし、創世記、出エジプト記、ヨシュア記、ヨブ記、ヨナ書、福音書、使徒の働き、ローマ書、ガラテヤ書、第一・第二コリント、ピレモン書などを学びました。興味があるものや好きなことには極端に集中する性分なので、頻繁に教会に行って学んでいました。また、聖書を自分で読むことも推奨されたので、ヨハネの福音書やヨブ記を一人で最初から最後まで読むことなどもしていました。教会の窓際の角の椅子に座っていつも聖書を読んでいました。

自分の中で大きなテーマだった、解決されないでいる世界の問題や科学的真理の絶対性、善と悪の問題を、聖書はどのように扱っているのかを最初は注目していましたが、肩透かしをくらいました。絶対的な真理である方、つまり神は愛だというのです。自分が人間であり、社会的存在である以上、人間関係の中で生き、喜びや悲しみを共有して共に生きていくことを必要としていることは、自分が自分で感じるので否定できません。つまり、自分が愛し、愛されることを根源的に願っていることは自覚しているので、「絶対的な真理、神は愛」という聖書の教えは、今までよりどころにしてきた科学的真理とはまったく似つかぬものでしたが、否定できないのです。

また、完全に利他的になること、完全に善であること、そのように人を愛することが自分には無理なこともすでに分かっていました。しかし、聖書は言います。完全に善であり、愛である方が、自分を含めた全人類を愛するために、創造し、今も愛していると。そのような完全な神の愛で自分が満たされるとき、隣人を同じように愛することができる。だが、その神の愛をどうやって罪深い人間が知ることができるのか? 人間の力ではそれはできない。しかし、その神の愛を、イエス・キリストがこの地上に来られ、言葉と行いで示し、最後には十字架上の死をもって示された。まだ自分が罪人であったときに、イエス・キリストが自分の罪のために死んでくださったことにより、神様がその愛を明らかにされた。神様はご自分の御子をお与えになるほどに、この世界を愛された。それは僕を含め、イエス・キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを得るためだった。

イエス様は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、隣人を自分のように愛しなさいと教えられました。また、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子とし、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい、とおっしゃいました。もしクリスチャンと呼ばれる人たちがこのような教えを、あらゆる国の人々に教えるなら、世界の解決されていない問題は解決されるだろう。どんなに強力な科学技術があっても、それを使う人の心次第で、剣にも鋤(すき)にもなる。ならば、科学技術の発展に先立って、まずは人の心から変わっていく必要があるのではないか? そう思ったのです。

ただ、口だけでそう言っていたなら、僕の心は動かなかったでしょう。東京ソフィア教会の人たち、合同福音の人たちは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛そうとしていました。また、隣人を自分のように愛そうとしていました。そして、その教えを全世界の人に伝える者の一人であろうとしていました。共に教会にいながら、聖書を学ぶだけではなく、彼らの生き方を観察して、口だけではなく、実行しているのを見て、これは本物だと思ったのです。そして、クリスチャンが皆で、イエス様の教えたような愛で愛し合う共同体をつくっていくのなら、自分もそれに属して一生を過ごしたい。この働きに参加したい。そう思ったのです。2004年7月1日、僕はイエス・キリストが自分の罪を贖(あがな)い、十字架にかかり、死なれ、3日後に復活され、死に打ち勝たれたことを信じ、イエス・キリストを僕の救い主として受け入れ、救われました。これが僕の信仰告白です。

張在亨牧師

東京ソフィア教会で開拓していた宣教師の派遣元である合同福音は、当時、中国や米国などの数カ国に宣教師を派遣し、教会開拓をしていました。合同福音の総会長をしていた張在亨(ジャン・ジェヒョン)牧師は、僕が後に留学先でも非常にお世話になる先生で、当時は派遣先の開拓教会を訪問し、礼拝で説教するだけでなく、伝道や牧会、信仰生活について相談に乗ったり、助言をしたりしていました。一言で言えば、メンタリングをしていたということです。僕も張牧師の説教を聞いたり、信仰について相談して助言をもらったりしていました。東京ソフィア教会以外の他の都市の開拓教会の人たちも来て助言を受けていました。張牧師の教えたことは、イエス・キリストの十字架によって人は罪を贖われ、救われること。イエス・キリストの十字架は失敗ではなく、勝利であったこと。そして救いを受けたクリスチャンとして、大宣教命令に従い、世界宣教の夢を見て福音を世界の果てにまで伝えていこうということ。伝道とは自分の救いの証しを紹介することであること。さまざまな教派や教団があっても、教会はキリストのからだなのだから互いに尊重し、宣教のために互いの重荷を負い合っていこうということ。次世代の宣教に必要なのはメディアと情報技術をよく理解した伝道者の養成であること。キリスト教主義の大学やキリスト教のメディアは、福音宣教に寄与することを第一義にして存在しなければならないこと、でした。僕から見た張牧師は福音主義に立ち、聖書信仰を持つ一人の牧師であり、神学者であり、世界宣教の夢を見て語る一人のクリスチャンでした。

キャンパス伝道とACM

イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、クリスチャンになった僕は、大学でキャンパス伝道を始めました。東京ソフィア教会では路傍伝道は普通にされていましたし、僕もクリスチャンなら伝道するのが普通だろうと思っていたからです。自分だけこの良い知らせを持って、他の人たちに知らせないでおくことなどできませんでした。自分にしてもらったことを、そのまま大学のキャンパス内で実行しました。休み時間にキャンパス内を歩き回り、出会った学生に聖書に興味はないかと聞いてみました。興味があると答えた学生とは、互いの授業のない時間を選んで調整し、ICUのキリスト教図書室で共に聖書を読んで学びました。当時ICU教会の副牧師だった北原葉子先生が、キリスト教図書室で聖書の学びをする許可をくださったのは感謝なことでした。

しかし、ICUのキャンパス内で伝道していると、ICUの宗教主任兼ICU教会牧師だった永田竹司先生に呼ばれて、キャンパス内で伝道してはいけないと言われました。聖書にはイエス様がガリラヤ湖の湖畔で伝道し、ペテロやヨハネなどの弟子を信仰に導かれたのに、なぜ伝道してはいけないのですかと聞きました。すると、それは2千年前のイスラエルという当時の歴史的・地理的背景があったことだからあり得ることであり、現代の日本で同じことをやると宗教の押しつけになるよと言われ、「君の聖書理解は原理主義だね」とも言われました。当時の僕はクリスチャンになり立てで、何を言われているかその時は分からなかったのですが、自由主義神学的な観点からの話だったのかと今では思います。

その後、永田先生の考え方を学ぼうと思い、永田先生の新約聖書の授業を取って、授業内でもいろいろ議論しました。使徒の働きで、エチオピアの宦官(かんがん)がイザヤ書53章の話をピリポとしますが、それがイエスの話とは言い切れないとか、新約聖書学者の田川建三はこう言っているとか、永田先生はそのように説明していました。それに対して僕は、それは明らかにイエス・キリストのことを指しているでしょうと食ってかかって、白熱した議論になったこともありました。そして、自由主義神学というものもあることを学びました。しかし、自分の福音主義的な立場が変わることはありませんでした。互いに相容れない立場ながらも、ICU教会の牧師室に遊びに行っていろいろ議論したり、話したりして永田先生とも仲良くなりました。永田先生は学生時代、水泳部に所属しており、僕も水泳を6年間やっていたため、水泳の話など、キリスト教とはあまり関係のない話もしました。僕は、ICUでは教養学部の理学科でしたが、並木先生のヘブライ語の授業やヨブ記の授業も取り、キリスト教についてもっと学ぼうとしました。並木先生は昼食後、学生有志と教授室でお茶を飲んで話をしていたので、そこにも通っていろいろな話を聞きました。

一方、当時、合同福音の米国の開拓教会に通っていた大学生たちによって始められたアポストロス・キャンパス・ミニストリー(ACM)という学生伝道団体の活動を、日本でも本格的に始めようという動きがありました。ACMは、キャンパス・クルセード・フォー・クライスト(CCC)や韓国の大学生聖書読み宣教会(UBF)のような団体です。僕は、ICUではキリスト者学生会(KGK)の集まりにも時折参加していました。しかし、KGKは学内でノンクリスチャンの学生を伝道するというよりは、むしろクリスチャンの学生が交流し、聖書研究と祈りの時間を持つことが活動の主眼でした。そのため、日本でもACMを立ち上げ、キャンパスでの積極的な伝道をしたいと願うようになりました。米国のACMのサイトを翻訳したり、日本語のコンテンツを探してきてサイトに入れたりし、日本での活動を始める準備を進めました。当時、同い年の大学生で千葉にいた矢田や、仙台にいた現副編集長の内田周作にも、ACMをしようと声を掛けました。

しかし先に述べたように、僕の当時の伝道スタイルはICUの雰囲気になじまず、キャンパス内での学生伝道は難しくなりました。ACMもサークル登録をしようとしましたができず、結局ACMは日本では実際的な活動はできず、当時のウェブサイトもその後閉鎖しました。

クリスチャンとして世間を知る

またある日、並木先生に牧師になりたいと言って、進路相談をしてもらったことがありました。並木先生は、すぐに献身者になるよりも、まずは社会経験を積んでおいた方が良いと助言してくださり、在学中でも何か仕事をしてみようと思って人材派遣会社に登録しました。惣菜工場、携帯電話の請求書の袋詰め、解体工事、家具運送の助手、ブラジル産冷凍鶏肉20キロの袋が満載のコンテナトラックの荷降ろしを一日中やる仕事、コンビニのレジ、物流倉庫の棚卸しなど、いろいろな職場を経験しました。

医療系の専門書を印刷している工場で働いたときには、表紙が少し切れているだけで、定価数万円もする本がボンボン捨てられているのを見てショックを受けました。その職場には年の近い同僚がいて、僕がICUの学生だと言うと、「お前なら出世できるから正社員にならないか」と勧めてきました。仲良くなったので、別れるのがつらかったのを思い出します。引っ越しの仕事では、夜中まで作業が続いた現場があり、最後に主任から「今日は君が一番仕事した」と言われたのがうれしかった思い出もあります。

コンビニのレジをしたときには、生まれて一度もタバコを吸ったことがないのに、銘柄と棚の場所を覚えることになりました。いつも決まった時間に「わかば」を買いに来るお客さんがいて、その人が店に入った瞬間、棚から出してスタンバイしていました。オリジン弁当では、「いらっしゃいませ」のあいさつをできるだけ気持ちを込めて言うようにしていました。また、カツを切るときのサクッとした感覚が好きでした。

いろんな人と出会って、世の中の人たちがどんなことを考えて生きているのか、共に働きながら感じることができました。どの現場も、世の中の役に立つ何らかのことをしていました。表では見えないけど、社会の裏舞台でそういうふうに活躍する人がいるおかげで、この便利な生活を享受できていることを学びました。クリスチャンも彼らの世話になっているのです。道端を歩いている人を、単なる「伝道の対象」と見るのではなく、この社会が成立し、回っていくのに必要な何かをしてくれている人としても見るようになりました。

クリスチャントゥデイ

福音宣教への熱意があるのに状況的にそれができない。そういう時期を過ごしていたら、東京ソフィア教会で会ったことのある高柳泉さん(前社長)がやっているクリスチャントゥデイというインターネットのキリスト教新聞を一緒にする人を探していると聞きました。矢田と一緒にその働きをやってみないかと声を掛けられました。僕はもともと物理学が専攻でしたが、クリスチャンになった後は、物理学を学ぶよりももっと福音宣教に役に立つことを学ぼうと思い、専攻を計算機科学に変更していました。ちょうどインターネットの新聞なので、自分の学んでいるIT技術を通して福音宣教に貢献できるのではないかと思いました。大学で学んだことを実際に使うことで腕試しする機会にもなります。こうやって僕と矢田は、2005年からクリスチャントゥデイを手伝うようになりました。当時は記事を書いたり、ウェブサイトの技術的な改善をしたりしていました。

当時を振り返って、印象に残っているエピソードを一つ思い出しました。クリスチャントゥデイの事務所が御茶ノ水付近にあったころ、JR御茶ノ水駅から事務所に向かって歩いていたときに、ちょうど駅前でオアシス福音センターの人たちが「今から集会をやります」と宣伝していました。それで「クリスチャントゥデイの記者ですが、一緒に参加して取材してもいいですか?」と聞いたら、「マスコミが釣れた!」と言って喜んで、会場の御茶ノ水キリストの教会に連れて行かれました。そこで初めて、全盲の牧師である影山範文先生と出会いました。集会の話を夢中でノートパソコンにタイピングしてまとめ、記事になったのが「オアシス福音センター 創立20周年記念集会を開催」です。普通はイベントの予定を事前に調べ、連絡して取材許可を取り、取材するのですが、この日の取材は駅前での出会いにより即決で決まったものでした。後にも先にもこんな取材はありませんでした。行き当たりばったりでしたが、神様が与えてくださった取材の機会だと信じます。

東京ソフィア教会、ICU教会、TBC

一方、クリスチャントゥデイで働く話を受けたころ、もともとそんなに裕福ではなかった東京ソフィア教会の財政状況が悪化し、教会開拓を続けるのが難しくなりました。残念なことですが、教会が解散することになったのです。教会として借りていた早稲田の事務所の一室から、家具を出して掃除し、最後にみんなで輪になって賛美歌を歌ったのが今でも思い出されます。ある人は韓国に帰り、ある人は別の教会に移っていきました。

矢田は淀橋教会に、僕はICU教会の礼拝に出るようになりました。ICU教会は英語と日本語のバイリンガルの教会で素晴らしい教会でした。ただ、教会の特徴として、外に出て行って路傍伝道しようというタイプではなかったので、そのような熱い福音派の雰囲気につかっていた自分にはあまり合わない感じがしました。そのため、ICU教会の礼拝には結局、数回しか出席しませんでした。その後、クリスチャントゥデイでも取り上げたことがあり、ICUのKGKメンバーの中にも通っている人がいた東京バプテスト教会(TBC)の存在を知り、そちらに通うようになりました。

TBCは、英語で福音主義的な説教をしている教会でした。自分が東京ソフィア教会というところでクリスチャンになったこと、クリスチャントゥデイの記者をしていること、またそれらが事実無根の誹謗中傷を受けていることなどを話しました。その後、メンバーシップのクラスを受け、浸礼による洗礼を受けて教会員になりました。TBCは路傍伝道や海外宣教もします。伝道担当の専任の牧師もいるくらいです。バイリンガルな教会で、いろいろな国出身のクリスチャンたちが集まった国際的な教会でもありました。先生方も僕の置かれた状況を理解してくださり、自分に合った教会に通えるようになって感謝しました。

特に感謝したいのは、TBCの主任牧師を長年務められたデニス・フォルズ先生です。デニス先生の説教を通して、クリスチャンとして聖書の言葉をどのように人生に、また生活や仕事のさまざまな場面に適応させ、実践して生きるかを学びました。最も心に残っているのはマタイの福音書5章3節の講解で、「霊的な乞食(spiritual beggar)」として神の前に出ていく人の姿についてでした。行いによる救いではなく、信仰による救い。心から神様に賛美をささげること。デニス先生は、言葉と行いによって確固たる信仰と愛の模範を示してくれました。

同信会

大学に通いつつクリスチャントゥデイの記者をしていたある日、クリスチャントゥデイの事務所に一枚の毛筆の手紙が届きました。キリスト同信会からでした。訪れて、同信会の歴史やこれまでの働きについてさまざまな話を聞かせてもらい、毎週火曜日に開かれていた聖書の学びにも参加するようになりました。そのような交わりの中で数冊の本も頂き、同信会に関連する3人の人物を知るようになります。

互いを「兄弟姉妹」と呼ぶ同信会の伝統にならって、ここで紹介する男性3人は敬称を「兄弟」として紹介させてください。1人目がハーバード・ブランド兄弟(1865~1942)。彼は若干23歳の時、英国のプリマス兄弟団(プリスマ・ブレザレン)というクリスチャンの群れから単身、宣教のために日本にやって来た人でした。このプリマス兄弟団は、牧師職や教会制度を不要とするほど強烈な万人祭司主義と深い聖書の学びを貫いた群れでしたが、同信会から頂いた『ブランドさんとその群れ』には、ブランド兄弟について以下のように記されています。

さて、プリマス兄弟団の信仰に立ち、日本伝道を志すブランドさんは、ケンブリッジ大学を卒業した翌年、すなわち一八八八年(明治二一年)秋、万里の波涛をこえて、ひとり日本へと渡って来た。プリマス兄弟団から派遣されたのではない。兄弟らは異教国伝道にゆくより、われらはキリスト教国といわれるくにぐにで信仰の革新につとめるべきだという意見が強かったからだ。たしかにダービーの海外伝道も、すべてキリスト教国であった。またブランドさんは外国伝道会から派遣されたわけではない。いまとちがって日本にかんする正確な情報は皆無に近かった。親戚も大反対で、集会としての送別会も開かれなかった。しかし、この弱冠二三歳の青年ブランドは、自分の財と身を、いまだ見ない東海の一小国の伝道にささげるべく、ただ主を仰ぎ、その召命のままに、勇敢な信仰的冒険者として、二〇〇〇トンの船にひとり身をゆだねてイギリスを出帆した。

このブランド兄弟の宣教への情熱は、僕がキリスト信仰に導かれるきっかけとなった合同福音の宣教師たちの情熱と同じものです。時代も出身地も違うキリスト者が、ただ伝道の熱意に燃えて言葉の異なる国に福音の種をまきに来た。このことへの感謝の念を忘れることはできません。

2人目が乗松雅休(のりまつ・まさやす)兄弟(1863~1921)です。日本人最初の海外伝道者とされている乗松兄弟は、ブランド兄弟に出会ってその群れに連なり、その後、植民地時代の朝鮮に渡ります。乗松兄弟は現地の人たちと同じ格好をし、福音を聞いたことのなかった人たちに韓国語で福音を伝え、教会を開拓し、そして何より現地の人たちを愛しました。クリスチャンとなった現地の人たちからも愛されました。植民地時代が終わっても破壊されずにほぼ唯一残った日本人の記念碑が、乗松兄弟の愛を刻んだ記念碑でした。そこにはこう書かれています。

生きるも主のため、死ぬるも主のため、始めも人のため、終わりも人のため、その生涯忠愛、おのれ主の使命を帯びて、その一切の所有を捨て、夫婦同心福音を朝鮮に伝う、数十年の風霜、その苦しみいかにぞや、心肺疼痛(とうつう)し、皮骨凍飢し、手足病敗す、その朝鮮における犠牲きわまりぬ、しかるに動静ただ主に頼り、苦に甘んずるの楽しみを改めず、その生涯 は祈祷と感謝なり、わが多くの兄弟を得、会するに主を同じくす、主の名は栄を得、その生涯苦にしてまた栄なり、臨終の口に朝鮮の兄弟のことを絶たず、その骨を朝鮮に遺さんことを願う、これわれらの心碑となすゆえんにして、しこうして主の再臨の日に至るなり。

同信会から頂いた『乗松雅休覚書 最初の海外伝道者』を読んで非常に感化され、そのように民族が違っても、憎まれるしかない関係にあっても、他者を愛して生きたいと願うようになりました。この本は、クリスチャントゥデイでも紹介しました(記事)。僕が韓国語を学ぶようになった動機の一つが、乗松兄弟のように韓国語で話し、韓国の人たちと兄弟姉妹として交わり、彼らを愛して生きたいと願ったからでした。

3人目が小山晃佑(こやま・こうすけ)兄弟(1929~2009)です。同信会の持田勝(まさる)兄弟から、乗松兄弟と同じように、小山兄弟は戦後初の海外伝道者としてタイに赴いたのだと聞きました。米国のプリンストン大学で博士号を取った小山兄弟は、タイの農村に赴き、人々に福音を伝えようとします。しかし彼らにとって、高尚な神学の言葉はそのままでは使い物にならないことを学んだといいます。そして、彼らの言葉であるタイ語を使うだけでなく、生活の基盤となる水田、またその農耕の営みを支える水牛など、現地の文化や風習を作り上げる生活の中の言葉を用いて福音を伝える術を、小山兄弟は学んだそうです。この時の経験が後に『水牛神学(Water Buffalo Theology)』などの著作として、海外で反響を及ぼすことになります。同信会から頂いた小山兄弟の『時速五キロの神』や『助産婦は神を畏れていたので』を読み、聖書を通して語る神の言葉が、自分の罪や、自分が属する社会の罪を深くえぐるとともに、その上でそれらを清くされようとする愛であることを学びました。

3人に共通していたのは、聖書の深い学びを通して知った神の愛と正義を、どんな遠くの人にでも、言葉や文化の違う人にでも、へりくだって愛することを通して伝えたいと願う伝道への熱意でした。

留学

大学4年になり、卒論の準備もしようかというころ、自分のアドバイザー(担任の先生)であった計算機科学の先生の研究課題の一つが、原子・分子の物理・化学的な特性のデータを集めることであり、これを核融合の研究のために応用していることを知りました。高校時代の夢だった核融合の研究に貢献する道が、ちらっと見えた瞬間でした。しかしその頃には、科学技術と社会の問題解決について、すでに自分なりに結論が出ていました。科学技術がいくら発展しようとも、人間の心がそれを善用するか悪用するかを決めてしまう。つまり、前提条件として善用する人の心が必要になる。そのためには何よりもまず、人の心が人種や国境、貧富の差を超えて互いを無条件に愛するように変わらなければならない。つまり、イエス・キリストの十字架に示されたえこひいきのない神様の愛によって、人の心が変わらなければいけない。自分の人生を費やす最も価値のある仕事は、福音宣教への貢献であると、自分の中には確かな「答え」がありました。

一方、それ以前から、東京ソフィア教会に通っていたときに知り合った宣教師の一人から、張牧師が米国に渡り、宣教学者の故ラルフ・D・ウィンター教授の下で世界宣教についての助言を受け、世界宣教に貢献する人材育成を目的とした大学を設立したことを聞いていました。その大学の名前はオリベット大学。オリベット大学において一番大事な学部は神学部です。神学の中でも宣教学は最も重要な分野の一つとして捉えられています。もちろん、聖書神学、組織神学、歴史神学なども当然重要な学問として学びます。ただ、神学部の学生だけが学ぶのではなく、神学部以外のすべての実学を学ぶ学部学生が、必須科目として神学の単位を相当数取ることが義務となっています。これは、オリベット大学という大学が、神学を学ぶ人は伝道と牧会によってキリスト教宣教に貢献する献身者として派遣され、実学と神学を学ぶ者は実学に裏付けられたプロフェッショナルな技能や職能によってキリスト教宣教に貢献する献身者として派遣されるという、ウィンター教授直伝の実践的宣教学を基礎にした大学だからです。

音楽専攻、ジャーナリズム専攻、グラフィックデザイン専攻、情報技術専攻、言語学専攻、経営学専攻、都市工学専攻、建築学専攻、農学専攻など、いろいろな専門分野はありますが、学部学生においては全員神学関連科目が必須であり、職能を生かして全員キリスト教宣教のために奉仕する献身者となることを前提に入学する大学だということです。

ここに、僕が強く共感したオリベット大学のミッション(建学の理念)を紹介します。

オリベット大学は、献身者を聖書的な学者やリーダーにならしめるべく訓練し、ネットワーク世代とその後に続く世代に福音を効果的に伝える上で実用的な能力を備えさせ、キリスト教宣教を通して世界を革命するためにささげられた聖書的な高等教育機関である。

僕は個人的にラディカルなものが好きです。「ほどほどにしましょう」が嫌いです。世界革命をうたうほど、オリベット大学は世界宣教においてラディカルでした。またこの理念は、神様の助けさえあれば、この世の知恵とスキルを世俗社会から宣教の場に持ってきて応用することによって、世界宣教が「半ば諦めの入ったスローガン」でも、「机上の空論」でも、「絵に書いた餅」でも、「口だけの約束」でもなく、いつ実現するかは分からなくても、「現実に実行可能な、暫時改善と効率化の可能な、そして達成可能なプロジェクト」となるという信念を表しています。

このオリベット大学のミッションに共感した僕は、まずは通信課程で神学学士(B.A. in Theology)を取得しました。そして祈った結果、米国に留学して、このオリベット大学で学ぶのが、ICU卒業後の進路として一番合っているという思いが与えられ、神学部の神学修士課程に入りました。その後、工学部(Olivet Institute of Technology)の情報工学修士課程に転科し、情報工学修士(M.A in Information Technology)を取得しました。さらにその後、神学修士(Master of Divinity)の取得に欠けていた単位を取ることを条件に博士課程に進み、情報工学と教会論の学際研究をするようになりました。

プリンストンやハーバードなどの大学には、確かに神学校や神学部があります。しかし、神学部以外の学生が、キリスト教宣教のために一生をささげる召命を受けた献身者でしょうか? そのために工学や経営学と一緒に必須な学問として神学を学ぶでしょうか? 卒業後それら実学の学徒の全員が、キリスト教宣教のために奉仕者として派遣されるでしょうか? プリンストンやハーバードも当初は「教会の子」と呼ばれ、牧師を養成することを第一義の目的として設立され、存在していたのに、いつの間にか世俗的な学問の追求を目的とした機関になってしまったのではないか?と、存命中のウィンター教授は語っていました。そして、ある講演の中でオリベット大学の学生や教職に問い掛けました。「大学とは何か?」と。僕もその場に座ってその問い掛けを直接耳にし、自分が今学んでいる大学とはどんな存在なのかを再確認する機会となりました。

フラーやゴードン・コンウェルは素晴らしい神学校です。学校を卒業する人たちは、キリスト教宣教に貢献する献身者となることが前提となっています。しかし、伝道や牧会の現場で情報技術や建築などの実践的な技能を持った献身者が万全のサポート体制をつくって支えてくれたら、総合病院の心臓外科医が心臓の手術だけに専念するように、使徒たちが7人の執事を任命して自分たちは御言葉の奉仕に専念したように、シラスとテモテがマケドニアから下ってきた後のパウロのように、牧師や宣教師は伝道と牧会により集中することができるのではないでしょうか。

キリスト教データジャーナリズム

僕の個人的な関心分野は、神学(教会論)、情報工学、ジャーナリズム学、教育学の4分野が交差する学際領域です。そして、キリスト教世界宣教の戦略策定時における世界レベル、国レベル、都市レベル別の教会成長、宣教の進捗の可視化などを目的としたキリスト教データジャーナリズムという分野を開拓する際に、例えば、このようなグラフデータベースのスケーラビリティーに関する論文にある技術を応用できるほどの次世代のキリスト教データジャーナリストを育成するために必要な大学院レベルのカリキュラム構成、卒業後のOJT(On the Job Training)の訓練課程を開発することなどが、具体的な関心事の一つです。同様の学際領域としては「キリスト教報道機関に特化したサイバーセキュリティー技術者の育成」「異なるキリスト教報道機関同士の安全かつ効率的な情報共有システムの開発者訓練プログラム」などがあり、このようなものも僕の関心事です。

砕けて言えば、「世界宣教がどれくらい進んでいて、どういう人材を、どこのどういう団体に送ったら一番うまく行くの?」「そういう情報をどうやって集め、どうニュースとして加工して報じればいいの?」「そういう情報を扱えるのは、何百個ものコンピューターに仕事をやらせる人じゃないといけない。しかし、そういう人材を育てる先生たちはどのように生徒を学ばせ、訓練したらいいの?」「そして、その人たちを卒業後、経験のあるベテランに育てるにはどう鍛えたらいいの?」「メディア運営のデジタルな仕組み作りをする技術屋さんを育てるにはどうすればいいの?」という問いへの答えを探す研究をし、得た知恵で、仲間の仕事場をより良く変えていき、若い人を育てることを生きがいとしています。

ウィンター教授は、米国世界宣教センター(U.S. Center for World Mission)の働きをする中で、世界宣教戦略に役立つ統計を作るのが夢だったそうです。ウィンター教授がメンターをした張牧師はこの夢を受け継ぎ、オリベット大学を設立したときには、他学部に加えてジャーナリズム学部と情報工学部も創設し、教授陣をそろえ、福音宣教のためのメディア教育とIT教育を始めました。その教育機関の苗床に僕はまかれ、今の自分に育ててもらい、同じ夢を共有し、ウィンター教授や張牧師のように次世代の福音宣教に奉仕するプロフェッショナルな人材の育成に人生を尽くしたい。これがこの分野に僕が関心を持つ理由です。

ある神学生の話

今回の編集長の就任に関して、一番大きな影響を与えたと感じているある恩師の話があります。その恩師を仮にN先生と呼びましょう。ある年に日本に帰国する機会があり、N先生の家に遊びに行ったことがありました。昔の話をいろいろするうちに、N先生が神学生だったころの話になりました。N先生は若い頃、伝道熱心な教会に通っていたそうです。その教会では熱心に路傍伝道もしていたそうです。そして、福音派のとある神学校に行くことを勧められ、入学することになります。

「イエス」という映画

その神学校には幾つか校則があり、そのうちの一つが「在校生は映画館に行って映画を見てはならない」というものだったそうです。映画の中には信仰的にも学ぶべきところがある良い映画もあります。しかし学校の方針としては、映画館の立地する場所や上映前のコマーシャルなどが良くないとの理由で禁止でした。これをおかしいと思ったN先生は、「あえて」学生寮の神学生みんなを連れ出して、ちょうど当時上映されていた「イエス」という映画を観に行きました。寮に一人も人がいないわけですから、神学校の先生たちも気が付きます。帰ってきたN先生は問われます。「何をしてきたのか?」「『イエス』という映画を観てきました」。教授会が開かれ、わざと校則を破ったN先生と、映画問題について議論が始まりました。それは夏休みになろうとする時期でした。映画問題に結論が出ないので、夏休み明けに議論を再会するまでは、それぞれの神学生の母教会にはこの問題について、神学生も教授会も話さないようにするという紳士協定が結ばれました。ところが蓋を開けてみると、それぞれの母教会にN先生の主張とそれを否定する内容のお達しが届いていました。紳士協定は破られたのでした。

神学校と日本国憲法第39条

さらにN先生は、授業の内容にも不満があり、それを抗議するために授業ボイコットもしました。教授会はこれに目をつけて、N先生を退学にする大義名分にしようとしました。教授会は新しい校則を作りました。授業の出席日数が一定数に満たない者には単位を与えない。単位を一定数取得できなければ退学。そして、教授会は「法の不遡及(ふそきゅう)」の原則に反して、新しい校則を過去の出欠にも適応させました。N先生はこのままでは退学になります。そのような時に「N君」と、一人の教授が呼びました。「これは僕の授業の出席簿だが、君はこの日とこの日には出席していたよね?」と、その教授は出席のマークをつけていくのでした。このような助けがあり、N先生は事後法による退学を免れます。

リンチ

教授会は新しい規則を作りました。N先生はいかなる教会にも通ってはならないという規則です。神学校が神学生に礼拝出席を禁じたということです。この時も、とある教授が助け舟を出しました。こっそり自分の通う教会の礼拝にN先生を連れて行ったのでした。また自分の家にも連れていき、ご飯を食べさせてくれたそうです。しかし、N先生の後輩の別の神学生が一人、この教授が通う教会の礼拝に出席していたのです。後輩の神学生が心の中でこれをどう感じたのかは分かりません。しかしある日、N先生はその後輩に呼び出され、寮の一室に連れて行かれました。入ると5、6人の別の神学生が取り囲み、出入り口は閉ざされ、N先生は一方的に殴る蹴るの暴行を受けました。N先生は絶対に仕返ししないと腹に決めたそうです。ひとしきりリンチが終わると、N先生はすぐさま暴行の事実を教授会に報告しました。教授会はN先生に泣きつきました。このことはどうか口外しないでほしい。神学校で暴行事件だなんて事が明るみになったら学校はおしまいだ。N先生は図らずも学校の弱みを握ったことになりました。N先生は「あれがあったから僕は卒業できたんだよ」と振り返ります。

卒業と通達

卒業の日が近付いてきたころ、N先生の神学校から、全国津々浦々の福音派の教会にお達しが届きました。「これからNという者が卒業するが、この者を決して牧師として雇用しないように」とのお達しでした。N先生が福音派の中で生きていく未来は絶たれたのでした。教授会からのいじめに遭う中で、その神学校に新しく赴任してきた宮村先生はN先生に優しく接し、よく一緒にご飯に連れて行ってくれたといいます。宮村先生は、N先生がそれまで神学校で経験した長い話を聞き、N先生のために祈り、助言していたのです。宮村先生はN先生に米国留学を勧めました。そしてN先生は留学中に、日本のあるキリスト教大学の付属教会に副牧師として招聘され、帰国することになりました。

学生時代には分からなかったこと

僕が学生だったころは、むやみにN先生に反発して先生の心の中など考えもしませんでした。今考えてみると、もしかしたらN先生は反抗的な僕の姿の中に神学生時代の自分の姿を重ねて見ておられたのかもしれません。僕は、N先生から助言や訓戒を受けはしましたが、僕の信仰を否定されたことはありませんでした。また、N先生が神学生時代に一部の教授から受けたような仕打ちを僕にするようなことは決してありませんでした。

東京ソフィア教会に通っているときも、キャンパス伝道をしていたときも、聖書の内容について論争したときも、クリスチャントゥデイに加わったときも、ICU教会に通っていたときも、TBCの教会員になったときも、長い年月を経て再会したときも、僕を一人のクリスチャンとして扱ってくださいました。宮村先生が神学生時代のN先生に接した恩が、順繰りになって自分の元に来たようでした。

根田祥一氏が15年にわたって主導してきたクリスチャントゥデイ異端捏造問題の本質は、イエス・キリストの十字架によって罪から救われたと告白する人たちの信仰告白を否定し、うそつき呼ばわりし、本人らが信じてもいない異端教理を信じていると自白せよと強要し、キリスト教界の意思決定を握る少数の人物に干渉して、その宗教的権威を濫用して、関係の断絶を宣布させ、特定の人々に異端のレッテルを貼って差別し、また周囲にも差別させ、その人たちをクリスチャンとして扱わず、また周囲に扱わせないように強要することにあります。

これはN先生を排除した教授会の手口とまったく同じであったことが、今になって分かるようになりました。

召命の意味

編集長の打診を受けたとき、祈りながら上記のような自分の人生で神様が出会わせてくださったさまざまな人々、経験させてくださったさまざまな出来事を思いめぐらしました。与えられた英語、韓国語、多文化適応、情報技術、宣教学など、それぞれの熟達度は不足していながらも、取材、情報の取得、整理、報道の現場で使うには便利な道具となるものです。神様としてはこれらを渡したのだから、使ってこの仕事をしなさいということなのだろうと解釈しました。また、日本のキリスト教界には、クリスチャントゥデイ異端捏造問題前にも、N先生のように陥(おとしい)れられ、不当に名誉を毀損させられ、泣き寝入りし、キリスト教界の権力の濫用によって被害を受けた弱者たちがいることも学びました。

祈りつつ考えました。このような経験を通らされてきた自分が編集長として召されたとすれば、何を神様は自分に求められているのだろうか? まずは、クリスチャントゥデイの基本信条と報道理念を忠実に守り、実践していくこと。そして、個人的なものを一つ挙げるとすれば、「キリスト教界の権力の濫用によって拡散された偽りによって隔離された被害者の口となり、真実を伝え、差別の壁を打ち壊し、イエス・キリストにある兄弟姉妹の交わりに戻すジャーナリズム」だと思います。

皆さんにお祈りの課題を分かち合えるとすれば、編集長として歩む中で経験するであろういろいろなことも神様の用意されたこととして、神様の取り扱いを受け、それに愛で応答し、隣人を愛することをこの仕事を通して実践する中で、イエス・キリストの福音を伝える者の「足」として用いられるようお祈りください。

よろしくお願いします。

主にあって
クリスチャントゥデイ
編集長 井手北斗