2018年10月31日水曜日

第101回編集会議(2018年10月31日)

開催日時:2018年10月31日(水)
開催場所:岩本町事務所

(1)宮村師メッセージ

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(新改訳2017、ローマ8:28)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(新共同訳、同)

私が最初に読んだ聖書は文語訳聖書だった。文語訳聖書を読んだのは1年か2年ほどだったが、この本文の記憶がよく残っている。『平気でうそをつく人たち』を読んだが、一言で言えば「何でもあり」。これまでも、この人がなぜこんなこと(うそ)を言うのか、という経験をしてきた。

「すべてのこと」とは、つまりこの世では、何でもあり得る、起こり得るということ。その一番の表れはうそだといえる。悪はあらゆることを悪用する。それがうそ。サタンはうそつきで、悪人は神のすべての善を悪用しようとする。しかし、それに対して善(神)は、悪人の悪までも使われ、善用される。マイナスとマイナスをかけるとプラスになる。負けたように見えることによって、勝利していく。

そういう意味で、「万事が益となる」の「万事」とは、うその現実、偽りの現実の中で克服していくことではないか。それがパウロ、また聖書全体が言っていることではないか。

この本文は、さまざまな事柄自体が自分にとって都合が良くなる、というような運命論(宿命論)的に聞こえるかもしれないが、非常に悪質な、うそをつくサタンの仕業がある。「神様は生きているのに、(この悪に対して)何もしないであろうか」とよく言われる。そして「いや、最後には裁かれる」とよく言われる。

しかし、平気でうそをつくこと自体がすでに裁きとなっている。裁きとは、どぎついことではなく、神様が放置することが一番の裁き。目に見える裁き以上に怖いのが放置すること。親が子を見放してしまうことのように。うそをついていること、それが神様から放置されている状態といえる。さらに深い悪の実態が許されているように見えることは、神様が「やがて」ではなく、それを放置されているということで、「今」裁いておられること。

神様の支配を実感して、ある場所に留まって、涙と汗をもって労していく。それが神の国に仕えていくこと。そういう意味で、101回を迎えたこの編集会議も、次回の102回もまたそれ以降も意味深いもの。

(2)前回議事録確認
(3)取材スケジュール確認


2018年10月11日木曜日

第100回編集会議(2018年10月11日)

開催日時:2018年10月11日(木)
開催場所:岩本町事務所

(1)宮村師メッセージ

私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。(新改訳、2コリント7:4)

わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。(新共同訳、2コリント7:16)

コリントの教会は、大変混乱した状態にあった。そのコリントの人たちに対して、パウロや彼の同労者たちがどのような態度を持っていたのか。それは一言で言えば、信頼。7章4節は、パウロがコリントの人たちを信頼していたことの証し。「あなたがたに対する信頼は大きいのであって」「あなたがたを大いに誇りとしています」という言葉で、それが分かる。さらに16節では「すべての点で」信頼すると書かれている。

トラブルの絶えなかったコリントの教会の人たちを信頼すること自体すごいが、パウロは手紙でそのことを書き、それを相手に伝えようとしている。自分が思っていることを相手に伝えることは、わざとらしいことではない。

なぜパウロは、コリントの教会のような状況にある人たちをも信頼できたのか。それは、パウロ自身が信頼された経験があるから。同労者たちも互いに信頼していた。その信頼があふれ、コリントの人たちにも広がっていった。教会であれば、教会内での信頼が外にあふれていく。愛された者だけが、愛することができる。

パウロは、自分が罪人の頭であったと言った。深い罪意識がある。だから、愛される資格のない者が信頼されたと、驚きとなり、それがパウロにとって福音となった。これがパウロの原点であり、同労者たちの中にもこれがある。資格のない自分が愛されている、信頼されていると。あくまでも受け身。

教会で「愛」という言葉は、ある意味、アカが付いてしまったような言葉。でも「信頼」と言い換えるとどうか。常識でいえば、信頼できないはずだが、コリントの人たちを信頼できる事実をパウロは喜んでいる。信頼がないところに、コミュニケーション、理解はない。信頼はコミュニケーションの必要条件。

教会では愛(信頼)を非常に大切にしている。これは信者同士が信頼する訓練をすることでもある。教会外の人たちを信頼するために、外に出ていく訓練のために。「私を信頼してくれ」とは言えないが、「私はあなたを信頼する」とは言える。不思議と、人を信頼すれば信頼されるようになる。

神様は真実である。うそをつかない。神様の真実が人に対して現れると、愛や信頼として現れる。

編集会議が100回目を迎えたが、指導者がいるわけでもなく、みんなで民主主義というわけでもなく、編集会議は合議制。教会政治でいえば、監督政治、会衆政治、長老政治のうちの長老政治。自立した人たちがリンクを張れるのが合議制。100回できたというのは、すごく摂理的。編集会議というのは、まずはお互いがお互いを信頼する、信頼されるのに値しない者が信頼されるということに基づく場。

(2)前回議事録確認
(3)アクセス報告
(4)取材スケジュール確認
(5)コラム進捗確認
(6)クリスマスのメッセージ執筆者候補について検討