2019年5月14日火曜日

アクセス障害のお知らせ

2019年5月14日午前1時ごろから6時45分ごろまで、クリスチャントゥデイ(https://www.christiantoday.co.jp)にアクセスしずらい状態が続きました。サイトはすでに復旧しております。読者の皆様には、ご迷惑おかけしましたことをお詫び申し上げます。


2019年3月22日金曜日

第108回編集会議(2019年3月22日)

開催日時:2019年3月22日(金)
開催場所:岩本町事務所

(1)宮村師メッセージ

イエスは近づいてきて、彼らにこう言われた。「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:18~20、新改訳2017)

有名な大宣教命令だが、聖書の中心は何か。日本クリスチャン・カレッジ4年生のとき、渡邊公平先生からの集中的な1年間の指導を受けた。その時、最後にレポートを書いた。テーマは「聖書の中心は三位一体なる神かキリストか」。結論を言えば、「キリストが中心である」というのはよく言われているが「三位一体なる神」が中心だといえる。

イエスは「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています」と話している。これは最高の権威だといえる。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」も、最高の権威を持つ者が言えること。しかし、その間に「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」とある。三位一体が出てくる。

「三位一体なる神」と言うが、そのリアリティーを忘れてしまってはいけない。これは1と3が同時になること。統一性と多様性が同時に。三位一体なる神が造られたものとして自然を見ると、そこには統一性と多様性が見えてくる。

しかし、どちらかに偏ってしまうことが多い。キリスト教は一神教というが、そうではない。ユダヤ教は一神教だが、キリスト教は三位一体の神を信じる。一神教は非常に正しい面があるが、しかし「父、子、聖霊」という多様性を持たない問題性がある。一方で3だけになると、多神教で「何でもよし」となりと、唯一の1を忘れている。

聖書の主題は三位一体なる神。三位一体なる神が天地を創造した。そこから理解するのが神学。それを沖縄で実践してきた。聖書を沖縄で読む、そして沖縄を聖書で読むと。そしてそれは、クリスチャントゥデイの働きにおいても。これは観念的なものではなく、クリスチャントゥデイの記事の中でも表されていくもの。

(2)前回議事録確認
(3)取材スケジュール確認
(4)イースターの寄稿について
(5)設立17周年企画について


2019年3月18日月曜日

「Google+ページ」終了のお知らせ

日頃よりクリスチャントゥデイをご愛読いただき、誠にありがとうございます。

さてこの度、Google 社提供の SNS「Google+」が4月2日(火)でサービス終了になるのに伴い、クリスチャントゥデイの「Google+ページ」における情報発信を、3月31日(日)で終了させていただきます。これまでクリスチャントゥデイの「Google+ページ」をご利用いただき、誠にありがとうございました。

SNS での情報発信は、今後も引き続き、FacebookTwitter で行ってまいります。これまで Google+ のみを利用されていた方につきましては、Facebook、Twitter いずれかへの移行をお願い致します。


2019年3月8日金曜日

第107回編集会議(2019年3月8日)

開催日時:2019年3月8日(金)
開催場所:岩本町事務所

(1)宮村師メッセージ

私は身を横たえて眠り、また目を覚まします。主が私を支えてくださるから。私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。(詩篇3:5-6、新改訳2017)

詩篇3篇には、編集者が付けたものだが、「ダビデの賛歌。ダビデがその子アブサロムから逃れたときに」と注がある。イスラエルの王ダビデが自身の子から反逆されるという、とんでもない状況で書かれたのが3篇。そして5節には、敵に取り囲まれているそのただ中で「主が私を支えてくださる」とある。「主が私を支えてくださる」というと、どんなに特別なことかと思いきや、5節には寝起きという日常のことが語られている。

今回、肋間神経になって、2月の沖縄滞在10日間のうち、最後の3日間くらいは、末の息子の家でお世話になった。畳の上に布団を引いて寝たが、とても痛かった。思わず大きな声が出てしまうほど。その中で楽しみは、牧師の集まりに出てから東京に帰ることだったが、少しでも早く家に帰らなければいけないという状況だった。

家にある介護用ベッドであれば寝起きが楽にできると思い、それを楽しみにしていたが、痛みでそれもできなかった。君代に手を支えてもらわないと、寝られないし、起きられなかった。自分で寝られない、起きられないことを経験して、寝起きすることがどんなに恵みかを感じた。小さなこと、当たり前のことに恵みを感じなければ、と言葉では言ってきたが、この5節のことを、体を持って経験した。

「小さなことのうちに恵みを知る」とは、私の言葉で言えば、「小さな者を侮る者は、大きな者にたじろぐ」。小さなことに恵みを見ることができないのであれば、困難に見える状況の中で、主の守りを確信することは難しい。

6節を見ると「幾万の民をも恐れない」とある。寝たり起きたりすることと、幾万の人々に囲まれることを比較するのはおかしいことだが、幾万の人々さえも恐れないという確信は、小さなことに対する恵みを知らなければ持てない。

クリスチャントゥデイにおいても、この確信を持たなければいけない。単なる情報が発言力を持つのではなく、現実の中で信頼の判断を。どんなに幼くても、どんなに小さくても、私自身の告白として、「主が私を支えてくださる」と告白すること。

そういった意味で、クリスチャントゥデイの編集会議は礼拝の場であると言ってきたが、これはクリスチャントゥデイに関わる一人一人が御言葉に生き、そしてその中から、生きた記事を書いていこうとすること。5節と6節の内的な関わりを、この2月、3月に考えさせられた。4月からは大きく主に期待していきたい。

(2)前回議事録確認
(3)アクセス報告
(4)取材スケジュール確認
(5)イースターの寄稿について
(6)設立17周年企画について


2019年1月25日金曜日

第106回編集会議(2019年1月25日)

開催日時:2019年1月25日(金)
開催場所:岩本町事務所

(1)宮村師メッセージ

幸いな者、悪しき者の謀(はかりごと)に歩まず、罪人の道に立たず、嘲(あざけ)る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。(詩編1:1-3、聖書協会共同訳)

聖書の中で詩編が特別な位置を占めていることは、私たちの経験、また他の人の経験からも言われていること。150編のどこをいつ読んでも、前後関係や歴史的な関係にとらわれずに読むことができる、聖書中の聖書といえる。

「聖書、聖書」と、聖書ばかりを言うと、何か狭いような感じをしないでもない。しかし「聖書と私」という関係は変わらないが、その同じ聖書を信仰の先輩、先達たちが読み、同じ聖書を違う環境、違う時代で読んでいたことを覚えるとき、聖書を読むことによって、異なる時代の人々との交流が出てくる。

例えば、内村鑑三がマサチューセッツ州のアマースト大学に行く前、私よりも100年近く前に、私が学んだゴードン神学院(現ゴードン・コンウェル神学校)近くの海岸を訪れ、自分の罪を海深くに沈めたと語っている。その海岸を訪れたとき、時代は違うが内村鑑三を見る思いだった。すごく深みがあった。聖書も同じく、そのように時代を超えて読むことができる。

詩編であれば、カルヴァンの注解を非常に愛している。カルヴァンを堅苦しいと言う人もいるが、ディボーショナルな読み方をしていた。さらに、アウグスティヌスの詩編の読み方、現代の月本昭男先生の詩編の読み方・・・と、同じ聖書を読むことで、場所・時代を超えた交流が生まれる。

2節に、御言葉を昼も夜も読むことが書かれている。そして、そのような人は「時に適って実を結」ぶと。詩編は言葉だが、それが実となり、行いとなり、出来事となる。

そのような人は川の「流れのほとりに植えられた木」のようであり、周りがどんなに乾燥していても、実を結ぶための水がある。私たちも、その生活が不毛な環境にあるように見えても、いのちの御言葉を持っている。私たちもまた、先達と同じように御言葉を読んで実を結んでいく。

クリスチャントゥデイの一人一人の交わりは、この御言葉による交わり。御言葉を読み続けていくことによる交わり。

(2)前回議事録確認
(3)取材スケジュール確認
(4)宮村師コメント