開催場所:岩本町事務所
(1)宮村師メッセージ
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28、新改訳2017)
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(同、新共同訳)
私が最初に読んだ聖書は文語訳聖書だった。文語訳聖書を読んだのは1年か2年ほどだったが、この本文の記憶がよく残っている。『平気でうそをつく人たち』を読んだが、一言で言えば「何でもあり」。これまでも、この人がなぜこんなこと(うそ)を言うのか、という経験をしてきた。
「すべてのこと」とは、つまりこの世では、何でもあり得る、起こり得るということ。その一番の表れはうそだといえる。悪はあらゆることを悪用する。それがうそ。サタンはうそつきで、悪人は神のすべての善を悪用しようとする。しかし、それに対して善(神)は、悪人の悪までも使われ、善用される。マイナスとマイナスをかけるとプラスになる。負けたように見えることによって、勝利していく。
そういう意味で、「万事が益となる」の「万事」とは、うその現実、偽りの現実の中で克服していくことではないか。それがパウロ、また聖書全体が言っていることではないか。
この本文は、さまざまな事柄自体が自分にとって都合が良くなる、というような運命論(宿命論)的に聞こえるかもしれないが、非常に悪質な、うそをつくサタンの仕業がある。「神様は生きているのに、(この悪に対して)何もしないであろうか」とよく言われる。そして「いや、最後には裁かれる」とよく言われる。
しかし、平気でうそをつくこと自体がすでに裁きとなっている。裁きとは、どぎついことではなく、神様が放置することが一番の裁き。目に見える裁き以上に怖いのが放置すること。親が子を見放してしまうことのように。うそをついていること、それが神様から放置されている状態といえる。さらに深い悪の実態が許されているように見えることは、神様が「やがて」ではなく、それを放置されているということで、「今」裁いておられること。
神様の支配を実感して、ある場所に留まって、涙と汗をもって労していく。それが神の国に仕えていくこと。そういう意味で、101回を迎えたこの編集会議も、次回の102回もまたそれ以降も意味深いもの。
(2)前回議事録確認
(3)取材スケジュール確認