開催場所:岩本町事務所
(1)宮村師メッセージ
私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。(新改訳、2コリント7:4)
わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。(新共同訳、2コリント7:16)
コリントの教会は、大変混乱した状態にあった。そのコリントの人たちに対して、パウロや彼の同労者たちがどのような態度を持っていたのか。それは一言で言えば、信頼。7章4節は、パウロがコリントの人たちを信頼していたことの証し。「あなたがたに対する信頼は大きいのであって」「あなたがたを大いに誇りとしています」という言葉で、それが分かる。さらに16節では「すべての点で」信頼すると書かれている。
トラブルの絶えなかったコリントの教会の人たちを信頼すること自体すごいが、パウロは手紙でそのことを書き、それを相手に伝えようとしている。自分が思っていることを相手に伝えることは、わざとらしいことではない。
なぜパウロは、コリントの教会のような状況にある人たちをも信頼できたのか。それは、パウロ自身が信頼された経験があるから。同労者たちも互いに信頼していた。その信頼があふれ、コリントの人たちにも広がっていった。教会であれば、教会内での信頼が外にあふれていく。愛された者だけが、愛することができる。
パウロは、自分が罪人の頭であったと言った。深い罪意識がある。だから、愛される資格のない者が信頼されたと、驚きとなり、それがパウロにとって福音となった。これがパウロの原点であり、同労者たちの中にもこれがある。資格のない自分が愛されている、信頼されていると。あくまでも受け身。
教会で「愛」という言葉は、ある意味、アカが付いてしまったような言葉。でも「信頼」と言い換えるとどうか。常識でいえば、信頼できないはずだが、コリントの人たちを信頼できる事実をパウロは喜んでいる。信頼がないところに、コミュニケーション、理解はない。信頼はコミュニケーションの必要条件。
教会では愛(信頼)を非常に大切にしている。これは信者同士が信頼する訓練をすることでもある。教会外の人たちを信頼するために、外に出ていく訓練のために。「私を信頼してくれ」とは言えないが、「私はあなたを信頼する」とは言える。不思議と、人を信頼すれば信頼されるようになる。
神様は真実である。うそをつかない。神様の真実が人に対して現れると、愛や信頼として現れる。
編集会議が100回目を迎えたが、指導者がいるわけでもなく、みんなで民主主義というわけでもなく、編集会議は合議制。教会政治でいえば、監督政治、会衆政治、長老政治のうちの長老政治。自立した人たちがリンクを張れるのが合議制。100回できたというのは、すごく摂理的。編集会議というのは、まずはお互いがお互いを信頼する、信頼されるのに値しない者が信頼されるということに基づく場。
(2)前回議事録確認
(3)アクセス報告
(4)取材スケジュール確認
(5)コラム進捗確認
(6)クリスマスのメッセージ執筆者候補について検討