2018年8月10日金曜日

第97回編集会議(2018年8月10日)

開催日時:2018年8月10日(金)
開催場所:岩本町事務所

(1)前回議事録確認
(2)アクセス報告
(3)宮村師メッセージ(1コリント1:1, 2)

神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。(1コリント1:1, 2)

「コリントにある神の教会」とあり、この手紙は特定の地域にある教会に宛てたものだが、その直後に「すなわち」とあり、「至る所でわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なるものとされた人々へ」と続く。

コリントの教会と、それ以外の地域の「至る所」にある教会が同じ立場で語られている。「伝える」側も「聞く」側の人たちも、キリストの側にあるということ。クリスチャントゥデイでも、私たちから読者へと、上から下へのようにするのではなく、ここで発信する私たちと、それぞれの場で読んでくださる方は、同等、同じ立場にある。これが記事を書くときの根底にある。

ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ11:39-12:1)

非常に大切な箇所。ヘブライ書を最初に読んだ人たち、この手紙を最初に受け取った人たちに、なぜ手紙を送ったのか。それは歴史的なセンスが欠けてきたから。そのことをヘブライ書の著者が懸念して、この手紙を書いたといえる。たとえば、昔は教会を開拓した宣教師の影響力が強く、その弊害を言ってきたが、今はそれが逆転されて、過去の宣教師が何をしてきたのかを忘れてしまっている。それと同じような状況が、このヘブライ書を受け取った人々にあった。

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:7, 8)

ヘブライ書の著者がなぜこう語ったのか。神の言葉を語り、自分たちに福音を伝えてくれた人々を思い出せ、と言っている。いくら正論を言っていようと、自分たちに福音を伝えてくれた宣教師や親のことを忘れていて、どうして自分はイエスを忘れない、と言うことができるのか。

現代の教会にも、過去を見ないということがある。誰も否定できない過去、歴史を見る。「歴史」というと、大げさに聞こえるが、教会を築き上げてきた無名の人たちを大切にしろ、歴史を見ろということ。

ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。(ヘブライ11:39)

「この人たち」(アブラハムやモーセなど)は、その信仰の故に神から認められていながらも、約束されたものを手に入れなかった。つまり、現代の私たちがどうあるかということで、彼らの完成が決まってくる。

「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」(ヘブライ12:1)では、私たちが歴史を「見る」だけでなく、逆に歴史から「見られている」ことが分かる。「競走を忍耐強く走り抜こう」(同)とは、歴史を形成していくこと。

私たちは過去の人たちに支えられている存在だが、過去の人たちの働きが本当に実り豊かなものになるかどうかは、私たちがどう生きるかによって決まってくる。私たちの記事も過去を見るだけでなく、記事によって現代の私たちが見られているようなものが出てくれば。

(4)取材スケジュール確認
(5)コラム進捗確認