2021年6月10日木曜日

第124回編集会議(2021年6月10日)

開催日時:2021年6月10日(木)
開催場所:岩本町事務所

(1)聖書メッセージ(井手北斗編集長、本文:1列王記3:16〜28)

ノーベル賞の功績を見てみると、2人以上の研究業績と認められることがある場合は賞金が山分けになる場合がある。ただ、いつも平等に分けられるわけではない。2008年度のノーベル物理学賞は3人が受賞したが、選考委員会が判断した貢献度に応じて南部陽一郎氏が2分の1を受け、小林誠氏、益川敏英氏がそれぞれ4分の1を受けた。

ただ、これには余談がある。南部氏の論文にはイタリアのユダヤ系物理学者でジョヴァンニ・ヨナ=ラシニオという共著者がいた。他の共同受賞では研究仲間である共著者との共同受賞者になる場合があるのだが、残念ながら共同受賞は3人までというノーベル賞の規定でヨナ=ラシニオ氏は共同受賞から漏れていた。同様の研究に心血を注いでいた欧州、特にイタリアの物理学会は、日米の研究機関に受賞を奪われる形となり、大きく憤っていたそうだ。

ノーベル賞の記念講演というものは、研究者としては一世一代の晴れ舞台だ。日経ビジネスオンライン2009年1月6日付の記事「講演を共著者に譲った南部博士」には「世界の素粒子物理学会の和を回復するためにどうしたらよいか。南部博士はお考えになり、共著者で50年来の後輩でもあるヨナ=ラシニオ教授に電話かメールをしたに違いありません。そして『自分は<病気>になるから、君が代わりに壇上に登ってよ』 と言ったのだと思います」と記されている。「物事(ものごと)」の「理(ことわり)」を明らかにするという未来に続く人類の一大事業を大事に育てたいという願いがあってのことだろう。南部氏は他の研究者なら他のどんな重要な予定より優先することをスケジュールから外し、愛する物理学のために大事なものを手放したのだった。

証しにも書いたが、私はクリスチャンになるまで物理学を最も愛していた。物理学を通して世界の問題の解決にどう貢献できるかを考え続けた。戦争で互いに殺し合った国々の物理学者が、高尚な学問の世界で平和に切磋琢磨(せっさたくま)し協力する姿に理想を見た。南部氏が物理学を愛する心、愛するが故に物理学界が引き裂かれる事態をなんとしてでも回避したいと願う心は痛いほど分かる。

本文を見てみると、2人の遊女が1人の赤ちゃんについて、自分こそ母親であると主張している。知恵にあふれたソロモン王ではあったが、両者を表面的に見て聞くだけでは真偽を判定するのに誤判定のリスクがあったのだろう。しかし、本物の母親は真実の心をこれでもかと注ぎだして訴えたのだから、当然本物のように見えたはずだ。

ここで注目したいのは、ソロモン王でさえ、母親を詐称する者の偽装も本物のように見えたということだ。悪意を持った者が本気で誰かを騙そうと腹に据えたときに見せる演技の偽善性と厚顔無恥さに歴然とさせられる。自らが偽装者であるにもかかわらず正体を隠して、逆に無実の人、真実の人を「正体を隠した偽装者」に仕立て上げ、冤罪を被せる偽善性。真実を語る人を逆にうそつきに仕立て上げ、自らはうそをついているにもかかわらず真実を語る者のように振る舞う厚顔無恥。この偽母親の姿を聖書は克明に描写し、人間は時としてこのようになることすらあるのだということを、後世の私たち読者の教訓となるよう記録している。

双方が同じような言い分を述べている。言葉だけを見ると区別がつかない。しかし、どちらかが真実を言っておりどちらかが虚偽を言っている。それは確実だ。どちらの言い分も正しいことはあり得ない。どちらの主張にもある程度分があり、双方に主張の正当性が認められるような事案ではない。2人が両方とも1人の子の母親である可能性はない。子どもはノーベル賞の賞金のように分けることができない。いや、そもそも、子どもは切り裂いて分け前を取り合うものではなく、大事に育てる自分たちの未来だ。

ところが、ソロモン王はあえてその未来を途絶えさせるような命令を下す。王は隠れていて目に見えなかった判断材料を引き出すために、わざと一見非道にも見える命令を下した。その判断材料とは「愛」だった。愛するわが子が引き裂かれる事態をなんとしてでも回避したい。母親は自分に冤罪を被せ、うそつきに仕立て上げ、王を騙し、憎しみにあふれて「断ち切ってください」と言う者を前に、毅然(きぜん)として相手の欺瞞(ぎまん)を王に示したが、大事なわが子を守るため、偽の母親が表した憎しみとは対照的な愛を自然に発露させた。

見分けのつかなかった本物の母親を一瞬で見分ける契機となったのは、御霊の実の筆頭に数えられる「愛」だった。ソロモンよりも優れた者である神の子は「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」と後世のわれわれに知恵を託された。人の結び得る最良の実とは、その言葉と行動によって表される愛ではないだろうか?

クリスチャントゥデイは信じる。神は全人類を、神と互いに愛し合い、他者と互いに愛し合うために創造されたことを。神の子イエス・キリストは「神と隣人を愛する」よう教えられ、また、その愛を実際に低くなり仕える生きざまと十字架の上での死にざまで示し、復活されたことを。そして、クリスチャントゥデイを含め、イエス・キリストによって罪を贖(あがな)われたわれわれキリスト者は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じられている。

証しの続きにも書いたが、私はクリスチャンになってからは世界宣教を愛している。計算機科学を通して世界宣教にどう貢献できるかを考え続けた。これからも愛し続ける。すべての民を弟子として教えるという、未来に続く人類の一大事業を大事に育てたい。

クリスチャントゥデイが宣教第一主義を掲げ、「宣教」をトップレベルの記事カテゴリーとしてウェブサイトに掲げ続けるのはなぜだろうか? クリスチャントゥデイが1年以上もかけて制作した日本の未到達地域の宣教地図は何の実りだったのだろうか? クリスチャントゥデイが世界宣教を愛し、世界宣教を愛するスタッフらの言葉と行動がクリスチャントゥデイという働きを日々形作っているからではないだろうか。

読者、コラムニスト、取材先、広告主、その他クリスチャントゥデイに関わる全ての人々との間に、大事に育ててきた信頼関係を、まるで「私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と叫ぶかのような声が聞こえる。クリスチャントゥデイに冤罪を被せうそつきに仕立て上げ、キリスト教界の上層部で意思決定をする人々を騙し、憎しみにあふれて「読むな、書くな、関わるな」と言う者を前に、私たちは何を示し、何を発露させて来たのか。キリストの体が引き裂かれようとするならば、最も大きな傷みを感じられるのは王の王である主イエス・キリストではないだろうか。

幸いなことにソロモンよりも優れた者である神の子の知恵は、大多数の読者に聖書を通して週ごとの説教を通してすでに伝わり備わっている。その知恵によって自由な意思ですでに判断材料を得ておられることに感謝したい。

「ソロモンが一発で判定を下すに足ると見た愛」が、
「愛されることを願っても愛を受けられない人たちへの愛」が、
「福音を聞きたくても聞けないでいる人たちへの愛」が、
「福音を伝える美しい足で歩む人たちへの愛」が、

クリスチャントゥデイの記事を通して発露されてきただろうか?

神と隣人への愛が実りとして一目瞭然と現れる記事をこれからも書き続けるクリスチャントゥデイになることを願う。

(2)前回議事録の確認
(3)先月までの振り返り
(4)東京オリンピック・パラリンピック関連
(5)戦後76年関連
(6)今後の予定