2020年12月3日木曜日

第119回編集会議(2020年12月3日)

開催日時:2020年12月3日(木)
開催場所:岩本町事務所

(1)聖書メッセージ(井手北斗編集長、本文:ルカ22:32)

聖書はどんな書物か。一つの側面は歴史書だといえる。本文は、後の教会指導者であるペテロについての記録。ペテロがイエス様を3度知らないと否認する場面が記録されている。聖書には良い記録だけでなく、悪い記録も残っている。体面を気にしてこれを載せないという選択肢もあったはず。しかし聖書は、聖霊を通して記述されたものであり、これを神様が載せると決断されたものと信じる。では、なぜ良いことも悪いことも記録させたか。それは、後世のキリスト者たちが、さまざまな課題についてイエス様が実際にどのように取り扱かわれたのかを知り、それに倣うことができるようにするためではないか。

イエス様はペテロのために、信仰がなくならないように祈ってくださった。その祈りは聞かれた。実際にペテロの信仰はなくなっておらず、使徒の働きを見ると、大胆に福音を宣(の)べ伝えるペテロの姿が記録されている。

今日、なぜこの箇所を見るか。最近CTでキリスト者の不祥事について報じる機会がある。キリスト教ジャーナリズムは、キリスト者の不祥事についてどのように対応すべきか。これは悩むところでもある。これを報じると聞こえてくる声がある。「証しにならない」と。確かに、キリスト者が悪いことをしたと伝えれば、やっぱりキリスト教はだめなんだと言う人がいるかもしれない。特に、キリスト教に対して悪い印象を持っている人は、非難の声を上げるかもしれない。

では、報じなくてもいいのか。なかったことにしてもいいのか。キリスト教の報道機関が、キリスト教の中で起きた不祥事について、あたかもなかったかのように通り過ぎることは、神様の目に正しいといえるのか。

ジャーナリズムについて考えてみるとき、その一側面を言い当てたものに、「ジャーナリズムは、歴史の最初の下書きである」という言葉がある。こう言ったのは、終戦から1960年代初めにワシントンポストの社主だったフィル・グラハムだ。キリスト教ジャーナリズムで言い換えると、「キリスト教ジャーナリズムは、キリスト教史の最初の下書きである」。実際にCTの記事が裁判の証拠資料として提出されたことがある。例えば、ある難民認定の裁判で、キリスト教徒に対する迫害が祖国で起きていることの証拠資料としてCTの記事が提出されていた。他にも、宗教学などの論文で参考文献としてCTの記事が引用されたこともある。こういう実例を見ると、キリスト教に関する歴史的事実の保存先としてCTが用いられているという側面が見える。

それと同時に、キリスト者が起こした不祥事については、キリスト教ジャーナリズムにしか報じることのできない報じ方がある。キリスト教の前提を知らずに書いた記事と、それを知った上で書く記事とでは、内容や深みが違ってくる。そして、キリスト教に対して良くない思いを抱いている記者が記事に含めた、良くない雰囲気を含んだ言葉がある。そのような人が書いた記事を見ると、「やはりキリスト教はだめだ」という論調で書かれている。こうした記事を見るとき、キリスト教への誤解を人々に与えないためにも、CTがキリスト者の不祥事について書くことは必要なことではないかと思う。少なくとも、間違った記録だけが残ってしまうという事態は避けるべきではないか。

さらに注目したいことは、本文でイエス様が、この後、自分を裏切ってしまうペテロに対して、彼がもう一度立ち直ることを信じてくださっていること。これがイエス様の信仰だと思う。イエス様の人に対するこのような見方は、なかなか世の中には見られない。犯罪者を更生する施設はあるが、一度悪人の烙印を押されたら、その人はずっと悪人として見られてしまうことが多い。では、キリスト教ジャーナリズムはどうか。悪名を負った人物であっても、その人が後で立ち直ることを信じて、記録する。立ち直ったら、それも平等に記録する。そのようなイエス様の視点を持ったキリスト教ジャーナリズムを、CTが実践していけたらと願う。

(2)前回議事録の確認
(3)先月までの振り返り
(4)今後の予定