2021年10月8日金曜日

第125回編集会議(2021年10月8日)

開催日時:2021年10月8日(金)
開催場所:岩本町事務所

(1)聖書メッセージ(井手北斗編集長、本文:ダニエル3:1〜30)

福音主義とは何か。いろいろな定義があるが、クリスチャントゥデイにとっての福音主義を考えた。編集方針には、クリスチャントゥデイが福音主義に立つことを明記している。記事では福音主義教会を報道するだけでなく、福音主義教会と呼ばれていない教会も取り上げる。人によっては、それは矛盾ではないかと問う人もいる。その時にどう答えることができるか。

一つの回答は、事実報道。福音主義に立つ新聞社ではあるが、教会は福音主義教会だけではない。キリスト教全体の動向を知る上では、福音主義教会だけでは全体を把握できない。キリスト教会全体の動向を伝えるために事実報道をしていると話す。これで納得する人もいれば、まだ納得しない人もいる。

では、事実報道とは何か。事実報道の5W1Hに価値判断は含まれていない。クリスチャントゥデイの価値判断を入れないのが前提となっている。一方で論説やコラムには、さまざまな価値観が表現され、多様な意見を発信するプラットフォームとしての役割を持っている。時には、コラムニストの見解と新聞社の見解が違う場合も出てくる。現在のところ本数は多くないが、論説も出している。では、クリスチャントゥデイの認識する福音主義とは何か。やはり、聖書の権威と人間の思想の権威、どちらをより重要視しているのかと問われたときに、聖書の権威を取るのが福音主義と考える。この定義に対しても、自分の聖書解釈を絶対視するのかといった意見がある。そこで考えるのは、いわゆる福音主義教会が伝統的にとってきた解釈の中で、一般的にコンセンサスが取れているものを軸とした内容が、クリスチャントゥデイがよって立つ福音主義ではないかと思う。

福音主義の中でも、特定の物事を認めないなど、福音主義の意味するものを極端に狭めてしまう考えもある。キリスト教の新聞社として、そのように極端な立場を採用したときに、果たしてキリスト教報道機関として神様のご用に役立つのか、伝道に役立つのか、疑問に感じるところがある。クリスチャントゥデイの立場としては、聖書の権威を他の思想の権威より重要視し、福音主義教会で一般的にコンセンサスがとれていることを軸とした福音主義に立ちつつ、事実報道としてはすべての教派を扱う。これまでにも、正教会、カトリック、プロテスタント、その中でも主流派、福音派、聖霊派はいずれも報じてきたし、これからも報じていく。他教派を兄弟姉妹として扱わないこと、または他教派にある違いを間違いとして報道対象として排除することはあってはならないと思う。どの教派でもキリストにある兄弟姉妹だし、神の家族であると信じ、イエスの言われた「互いに愛し合いなさい」の戒めに従っていきたい。

クリスチャントゥデイの読者は福音派の人々だけではなく、もちろん福音派だけの新聞でもない。さまざまな教派の人々に広く読んでいただくこと、さらには、キリスト教に関心を持つ一般の読者に誤解なくキリスト教を知っていただくことを願っている。しかし、私たちがコアとして持っている主義、土台となっている立場は福音主義である。

この立場に立ち、今回の聖書箇所を見る。本文でシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人は、ネブカデネザル王が建てた金の像を拝めと言われた。この像は、王という当時最高の権威をもって人が造ったもの。それを拝むというのは、権威に対して服従の意を示すことであり、当時社会的に是とされていることでもある。もちろん、「政治的に正しい」とされていることでもあった。当時の社会状況、政治状況を見たとき、その像を拝むことは当たり前のことだ。けれども、偶像を拝んではならないという神様の言葉と両立しない。「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない、偶像を拝んではならない」。この神様の言葉に真っ向から反する行為だった。

モーセの時代に、民は金の子牛を拝んだ。神ならぬものを神として拝めばどうなるか、イスラエルの民は学んでいた。3人もそれをよく知っていたが、同時に、王に仕える者として、王の命令を拒否したらどうなるのかも十分に分かっていた。それでもあえて、神様の言葉に従うことを決めた。おそらく怖かったと思う。皆を敵に回すことになり、当時としては反社会的な行為でもある。けれどもそれを実行した。戦時中のホーリネス弾圧で投獄された牧師たちがいた。彼らも3人と同じことを実行し、同じ葛藤を経験した。当時彼らは反社会的だと見なされた。天皇とキリストではどちらが偉いのかと聞かれた。ダニエル書とまったく同じ状況があった。そして、答えたらどうなるかも分かっている。けれども、神様の言葉を大事に思い、国家権力による迫害があっても、その命令を拒否した。「人を殺してはならない」などの、神の言葉に反しない国家の命令に反対する必要はない。しかし、神の言葉と対立する場合、どうすればいいのか。そこにおそらく、福音主義のよって立つところがある。

クリスチャントゥデイも同じような局面を迎える時が来るかもしれない。その時になって、どちらを選択するのか。シャデラクら3人は神様が助けてくれたが、火に投げ込まれるまでは自分が助かるかどうかは分からなかった。私たちには、どのような結果が待っているかは分からない。実際に、ホーリネス弾圧で獄死した方もいた。そこにも何か理由があったはずだ。助けてもらえるときも、そうでないときもあるだろう。しかし、私たちが立つ福音主義は、「たとえそうでなくても」の信仰だと思う。「たとえそうでなくても」神様の方を選びますと言える、信じることを伝えられるクリスチャントゥデイになることを願う。

王は怒って3人を火に投げ入れるが、最終的には神を敬う人に変えられた。神様の栄光と御力が現れるときには、最高の権威者をも変えられる。そして神様の御名が、国中の人にあがめられるようになった。そのような出来事を通して彼らの信仰は聖書に記録された。クリスチャントゥデイに関わる私たちの信仰も後の世にそう記録されることを願う。

(2)前回議事録の確認
(3)先月までの振り返り
(4)クリスマスメッセージ
(5)今後の予定