以前教会に通っていたある方が、教会に消火器を投げつけ、
教会の入り口付近の器物を損壊する事件がありました。
【ニュースの記事】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100704-00000556-san-soci
この記事によると、
恩師の牧師が海外へ行ってしまって見捨てられたという思いや、
奉仕をしても自分の親族や周りに不幸が起こることへの不満
が原因の一つになったようです。
この事件の事を聞くにつけ、
この方の不幸へのかわいそうな思いと同時に、
勘違いされたかもしれない牧師の方のお気持ちや、
不満や誤解を抱かれているかもしれない主のお気持ちを
案ずる思いが生じました。
このようなときこそ、主の御心を求め、
御子イエス様の信仰に立ち返りたいものです。
<ルカ22章42節>
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
イエス様のこのお祈りのときは、
イエス様を憎んだり誤解している人達の手によって、
もうすぐイエス様ご自身の命を奪われようとしている、
そういう緊迫した非常につらいときでした。
ご自身の命を奪われることほど、
大きな不幸というものはないのかもしれません。
そういった悲しみの場に立たれながら、
お祈りされた内容が、この聖句の通り記されています。
御心であれば、この十字架の苦しみを取りのけてください。
しかし、自分の願いではなく、御心の通りにしてください。
という旨のお祈りを捧げられました。
イエス様のお祈りの中に込められている思いは、
自分の願いよりも父なる神様の御心が優先される事を願う、
そういった思いでありました。
私達は自分の願いや祈りがかなえられない時に、
不満を言い、教会のせいで不幸になったとか、
牧師のせいでつらくなったとか、
父なる神様のせいにしたりするかもしれませんが、
イエス様はお祈りされるまさにそのときでさえも、
ご自分のどんなにつらく悲しんでいる事柄でも、
どんなにかなえて頂きたい願いであっても、
主の御心がなされる事を先に願いました。
「私はこの苦しみを取り去って頂けるように願いますが、
このつらく苦しい道も御心であるならば、
私の願いが退けられて、御心がなされる事を願います。」
私達はこのようなお祈りを捧げることができているのでしょうか。
このイエス様のお祈りにならって自分のつらさ苦しみ、
親族のためにお祈りを捧げるならば、
お祈りを捧げているその瞬間から、
全ては御心の通りに、という願いとお祈りとなりますから、
自分の願い事の事で安易に不満を言ったり、
教会や牧師のせいにしたり、
神様をのろったりする事はないのではないでしょうか。
イエス様がご自分の願いよりも、
主の御心を優先して行かれたその十字架の道によって、
私達が頂くようになった恵みがはかり知れません。
イエス様が私達の代わりに命を捧げて下さったのですから、
そのイエス様の命と引き換えに
主の救いの恵みに与っている私達は、
たとえ自分の命が奪われるほどの道を進むしかない時でも、
もうすでに自分の命と引き換えにするほどの大きな恵みを
頂いており、主の恵みのゆえに、
そしてイエス様が先に歩んで下さった限りない愛のゆえに、
感謝を持ってその十字架の道を行く事ができるかもしれません。
この事件を通じて、
教会から信徒の方々へより豊かな愛が注がれるよう
願われましたし、
また信じる人々からは、教会へそして父なる神様へ、
主の御心を第一に求める信仰によって
主に近付く愛の姿が与えられるように願われました。
自分の身の周りにどんな事が起きるとしても、
父なる神様は私達を愛して下さっているという、
堅い信仰の上に
私達が日々感謝を持って喜び歩む事ができますように。
ご自分の命が奪われる場でも、
父なる神様を信じ、御心を何よりも求めた、
そのイエス様の絶対的な信仰と父なる神様への限りない愛が、
私達にも与えられますように願っております。
そして、この事件を起こされた方が謝罪すべきは謝罪し、
償うべき事は償う事は必要かと思いますが、
何よりも主の赦しの愛に再びふれられる日が来る事を
心より願っております。
(記事を読んでの意見ですので、)
(上記内容には事実とは誤差のある推測や誤りが含まれる可能性もあります。)
(記事だけをみてコメントする事は、少しはばかられますが、)
(イエス様のお祈りを通じてイエス様の信仰の力を頂きましたので、)
(その恵みを主軸としてスレッドを立ち上げさせて頂きます。)
この事件を通じてのご意見や、改めて考えさせられた事、
ご自身の目指している信仰について等々、
お教え頂ける方は、是非よろしくお願いします。(続きを読む)
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