2017年11月20日月曜日

「ごんぎつね」とキリスト 雜賀信行

幼い頃から切ない物語が好きだった。小学校低学年の時だったと思うが、雑誌に載っていた新美南吉の「ごんぎつね」に感激し、そのページだけ剥(は)がして綴(と)じ直し、学習発表会で朗読をした。しかし、ラストシーンでは感極まって読めない。そんな子どもだった。

今から35年前。17歳。高校3年生の春、友人に誘われて初めて教会に行った。岡山県南にある日本同盟基督教団(当時は単立)西大寺キリスト教会(赤江弘之牧師)だ。映画会と言われて、「十戒」でも観られるのかと期待して行ったら、「ムーディーの科学映画」でがっかりした。その帰り、友人から三浦綾子『塩狩峠』をプレゼントされたので、すぐに読み、感動はしたのだが、それだけだった。幼い頃と比べると、ずいぶんひねこびてしまった。

詳しい経緯は省略するが、その後、当時の仲間が次々に洗礼を受けていく中、僕も消極的ながら教会に通うようになった。高校卒業後、自宅浪人をしていたので、いわば人に会うためだ。礼拝以外にも、毎週、牧師から初歩教理を学んだ。「海外の作品の背景にあるキリスト教について学べればいいか」ぐらいの感じである。当時、文学や映画など、受験勉強では満たされない魂の渇きをいやすものを貪欲に求めていた。

それまでずっと優等生として過ごしてきた僕にとっての大きなつまずきは、失恋だった。その子のために一生懸命勉強をして、生徒会やさまざまな部活に励んでいた学校生活は、一気に生きる目的を失ったことでブラックアウトした。受験勉強をして大学に行く意欲はすっかり失せていた。

とはいえ、失恋した心の隙間に宗教が入り込むような人間でもなかった。僕は簡単に信じることができなかったのだ。礼拝の時、横を見ると、賛美歌を歌いながら涙を流している女性がいる。「このように素直に信じられたら楽だろうな」と冷ややかに見ているような人間なのだ。

高度経済成長期、共働きの両親のもと、何不自由なく「いい子」として育った僕に、「何としてでもいい大学、いい会社に入ろう」というハングリー精神もなく、人生の踊り場で立ち往生していた。確かにあのまま順調に進むと、傲慢で鼻持ちならない、人の痛みの分からない人間になっていただろう。それにしても、あれほど混乱していた時期はなかった。

心の隙間は、人でなければ埋められなかった。浪人生にあるまじきことに、遠距離恋愛をした。海外にホームステイした時、知り合った人と意気投合して、帰国後も文通をした。ところが、彼女からの返事もそのうち間遠になっていく。そりゃそうだ、あちらは大学生活で忙しい。しかし、こちらは自宅浪人。毎日、郵便配達のバイクの音が聞こえてくると、郵便受けを確認し、落胆することの繰り返し。

そのような日々を送っている時、ふと思ったのだ。これが僕が神様にしていることではないかと。神様は僕からの応答を待っておられるのに、僕の気持ちは神様のほうには向いていない。僕はそれまで全知全能の神の存在を思い描くことはあった。自分のことを何から何まで見ていると思い、怖かった。ただ、神は愛だと言われても、あまり実感はなかった。オールマイティーだから、オートマチックに愛が溢れ流れているようなイメージだったのだ。

しかし、愛はそういうものなんかじゃない。手紙を時間をかけて書くのだって、非常に心を遣う。だからこそ、返事が待ち遠しいのだ。両親の愛だってそうだろう。僕をここまで育てるためには、毎日毎日、食事を作り、小さい時は何から何まで世話を焼いて、その労苦の積み重ねが愛なのだ。だからこそ、子どもが向けてくれる喜ぶ顔が親にはうれしいのではないか。愛とは人格であり、応答だ。その最も基本的な真実にその時やっと思い至ったのである。

さらに、その時ふっと「ごんぎつね」の話も心に浮かんだ。小ぎつねのごんがお詫びのために毎日、栗や松たけを届けていた。その心は相手の兵十にはまったく伝わることがなく、最後には兵十は自分の誤解に従ってごんを撃ち殺してしまう。ああ、これがキリストを十字架に付けたことなんだと了解した。神様はどんなに愛を注いでくださったのか分からないのに、僕はそれを理解せず、むしろ神を誤解し、拒み、自分勝手な理解の中で神に応答しようともせず、キリストに銃口を向けていた。いや、「青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました」。

「ごん、お前だったのか。いつもくりをくれたのは」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。